ADHDの彼と適応障害の彼女(仮)

日ごろの生きづらさについて綴ります。

カムアウトについて

昨日、彼が自身のADHDについて職場の上司にカムアウトしたそうだ。

そのことについて私の感じていることを書きたいと思う。

 

精神科を受診したのはつい先日のことだった。

「記者」として働いている彼だが、職場はいわゆる日本の古いしきたりに縛られている(ように私からは見える)メディア関係。パワハラ・セクハラは当たり前、長時間労働万歳、奴隷のように仕事するのが偉い、というのがお決まり。そんな職場で働いているうちに、仕事上のミスや遅刻が目立つようになり、常日頃直近の上司からパワハラ被害を受けるようになった。新卒なのになぜか中途のような即戦力を求められ、身も心も追い詰められていた彼を見かねて、私は病院を受診するように勧めた。最初はどうしようか迷っていた彼も決心をし一緒に病院を受診することに。

しかし、結果的にはADHDだとは診断されず、一旦薬で様子を見ましょうという話になった。ADHDに対応している病院を調べて受診したつもりだったが、その病院では一度ほかの病院で診断された患者が経過観察のために訪れる病院だったらしい。この病院選びが難しいのも現実だ。それからは、処方された薬を飲みながら生活するようになったのだが、驚くべきことに、薬を飲んでいる時の自分と飲んでいない時の自分は全然別人のようになるらしい。薬を飲んでいる時は、頭が覚醒し集中できるようになりミスもないという。なぜあんなにミスが起きるのか自分でも分からないそうだ。

そして、昨日上司に半強制的にカムアウトさせられた。飲み会の最後の方で、「なぜそんなにミスが起きるのか、なぜそんなに時間にルーズなのか。」などと面と向かって追い詰められ、どうしようもなくなった彼は自分のリュックの中から薬を出した。

「この薬を飲みながら仕事をしているんです。医師からはっきり言われたわけではないですが、たぶん自分はADHDという発達障害です。自分は他の人が当たり前にできることをできません。理解してもらいたいというわけではないですが、こういう事実があるということだけでも知っておいてほしいです。」

すると、2人の上司は急に顔色を変え、「そういうことだったんだ。一つ一つやっていくしかないね。」と声をかけたそうだ。

この話を聞いて私が感じたこと、それは、まず一言目にかけるべき言葉は違う言葉なのではないか、ということ。欲を言えば、これを機会に自分が今まで後輩にしてきたことについて謝るべきだったのではないか。「ごめんね、そうだったんだ。そんなことは全然知らなかった。知らないから一言も親切に声をかけることなくパワハラをしていた。」と、こんな一言があれば違ったのではないかと思う。無知ほど愚かなことはない。知らなかったから許されるというわけではない。後輩を指導する立場にある上司が、気軽に相談をしやすい雰囲気を作らなかったこと、むしろ自分の権力を乱用し、相手を追い詰め続けたこと、そこに上司としての責任があるのではないかと感じる。もっと相談しやすい環境であれば、信頼できる上司がいれば、飲み会の場で涙を流しながらカムアウトすることもなかっただろう。

カムアウトするまでのプロセスは人それぞれだろうが、当事者本人はそれまでもその瞬間もかなりの緊張状態であるということを忘れないでほしい。もしこれを言ってしまったら、左遷されるのではないか、クビにされるのではないか、会社中に言いふらされるのではないか、などと常に不安を感じているからだ。当事者以外の私たちができること、それは「想像すること」だと思う。「人に寄り添う」とはよく聞く言葉だが、簡単に人に寄り添うことができれば、この国でこんなに自殺者はいないだろう。例えば、私の友達が腕を切っても、その痛みは私には分からない。例えば、あなたの彼が自分を殴っても、その痛みはあなたには分からない。ただできることは、自分という存在の無力さを噛みしめながら、私たちの頭の中の、心の中の想像力を少しでも働かせることだけだ。